2025年4月から、プライム市場の上場会社には決算情報・適時開示情報の英文開示が義務付けられました。多くの企業が決算短信や決算説明資料の英語版を発行するようになり、「出す」段階の対応は一巡しつつあります。

しかしIR翻訳の現場から見ると、義務化対応で急いで整えた英語版には、共通するつまずきのパターンがあります。本記事では、特に四半期ごとにスピード勝負で制作される決算説明資料の英語版に焦点を当て、企業がつまずきやすい5つのポイントと実務対応を解説します。

前提:「参考訳」でも、読まれ方は評価されている

制度上、英文開示は参考訳としての位置付けであり、内容の正確性そのものが取引所規則の措置対象になるわけではありません。この建付けが「最低限の機械翻訳で義務は果たせる」という判断を生みやすいのですが、読み手の行動は別です。東京証券取引所の調査では、海外機関投資家の72%が「決算情報の英文開示がない企業には投資しない」と回答し、英文開示が不十分な企業を評価から除外・割引する行動も確認されています。同調査では投資家が「英文開示が優れている会社」「充実が望まれる会社」を具体的に名指しする形式も取られており、規則上の義務は軽くても、市場からの評価は既に始まっているのが実態です。

つまずきポイント1:数値・単位の転記ミス

決算説明資料は文書の性質上、数値の密度が極めて高く、英語化の過程で「億円→million/billion換算」「桁区切り」「増減率の符号」などのミスが混入しやすい文書です。文章の巧拙と違い、数値の誤りは投資判断に直結する実害であり、発見された場合の信頼毀損も最も大きい領域です。

実務対応: 英語版の全数値を日本語原文と突合するプロセスを、制作フローに明示的に組み込むこと。人手のサンプルチェックでは拾い切れないため、機械的な全数照合と人手確認の組み合わせが現実的です。

つまずきポイント2:スライド形式特有の「文の断片化」

決算説明資料はスライド形式のため、見出し・箇条書き・図表注記が主体です。日本語の体言止めや助詞省略をそのまま英語に置き換えると、文として成立していない断片や、途中で切れた文が紛れ込みます。当社が実際にプライム上場企業の公開資料を分析した際にも、箇条書きの途中で文が途切れている例が確認されました。読み手には「管理されていない文書」という印象を与えます。

実務対応: 翻訳チェックを「文章」だけでなく「スライド上の全テキスト要素」(見出し・凡例・注記・図表内)に広げること。組版後のPDFに対する最終確認工程を設けるのが確実です。

つまずきポイント3:用語・表記の不統一

会計年度の表記だけでも「FY2025」「fiscal 2025」「the fiscal year ended March 31, 2025」と複数の書き方があり、同一文書内や四半期をまたいだ資料間で混在しがちです。役職名・セグメント名・社内固有の用語も同様で、四半期ごとに翻訳の担当者やツールが変わると、表記は必ずぶれます。

実務対応: 英文用語集(グロッサリー)とスタイルガイドを整備し、毎四半期の制作で強制的に参照させること。一度作れば以降の品質と速度の両方に効く、投資対効果の高い施策です。

つまずきポイント4:直訳調の密度

「取組を推進する」「体制を強化する」「〜の実現に貢献する」といった日本語IRの定型句が、initiatives・promote・strengthen・contribute toへ一対一で変換され続けると、文書全体が抽象語で埋まり、海外投資家には「翻訳された文書」という印象を与えます。当社の実測調査では、日本を代表する大手企業の英文統合報告書でも直訳調表現の密度はネイティブ執筆文書の約6倍にのぼり、スピード優先で制作される決算説明資料ではさらに高い傾向が確認されています。頻出表現の具体的なランキングは別記事の実測調査で公開しています。

実務対応: すべてを書き直す必要はありません。トップメッセージ・業績ハイライト・ガイダンスなど、投資家が最も読む箇所から優先的に「英語として書かれた文章」の水準へ引き上げるのが費用対効果の高い進め方です。

つまずきポイント5:改善サイクルが存在しない

最大の構造問題はこれかもしれません。決算説明資料の英語版は四半期ごとに発行されるにもかかわらず、多くの企業で「前回の英語版がどうだったか」を評価する仕組みがなく、同じ問題が四半期ごとに再生産され続けます。日本語版には社内レビューの目が何重にも入る一方、英語版は最終チェックの担い手が社内にいないケースが大半だからです。

実務対応: 年1回でも良いので、英語版を客観的な基準で評価し、次の四半期の制作(翻訳指示・用語集)に反映するサイクルを作ること。評価→改善→次号反映が一巡すれば、以降の品質は自動的に底上げされます。

まとめ:優先順位は「正確性 → 一貫性 → 自然さ」

限られた予算と時間で英語版の品質を上げるなら、優先順位は明確です。第一に数値の正確性(実害の防止)、第二に用語・表記の一貫性(信頼感の土台)、第三に直訳調の解消(伝わる英文への引き上げ)。この順で手を打てば、投資対効果を最大化できます。

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【注記】本記事の制度に関する記述は執筆時点(2026年9月)の情報に基づきます。最新の制度内容は東京証券取引所の公表資料をご確認ください。